「公式」を教えることの教育的な意義

実入試において、「公式の基礎原理を知らなくてもよい」というメッセージが表れているという話を開成を例に挙げて書きました。

これは、公式は必ずしも基本原理をきっちりと押さえておかなくとも、適用範囲を間違えずに正しく運用ができればよいという実践的とも言えるスタンスです。

筆者もそれでいいと思います。

あまり堅苦しく完璧主義の潔癖なスタンス=公式は必ず原理まで理解すべきを取りすぎても、いろんな意味で苦しくなるだけだと思います。

そもそも「公式」を教えることの教育的な意義を検討したいと思います。

子どもたちが、「公式」というものの存在をはじめて知るのが長方形・三角形の面積の公式ではないでしょうか(もっと前に何かあるかもしれませんが、それを追及することが目的ではありませんので)。

初学者に対して、いきなり意味も教えずに「公式」を教えて、ハイ計算しましょう、
さすがにこれでは教育として何を目指しているのか分かりません。
やはりまずいでしょう。

長方形や三角形の面積の公式について、長い時間をかけて検討し、学習していくようなカリキュラムであることが普通です。

公式とは「様々なときに汎用的に使える道具」といえます、もちろん適用範囲内でですけども。三角形の面積の公式に初対面した4年生は
そんなうまい話が本当にあるのか(どんな形の三角形にも通用するのか)ということを学んでいく機会になります。

公式というような方法論によって、一般的に使える道具を持つ。
特殊から一般へ。いわば「数学的な考え方」に触れていく機会ともいえます。

そのような学習の機会をきちんと持つことは算数教育において極めて大事なことといえます。
つまり、公式という便利な道具の存在を知り、なぜ公式が成り立つかという原理まで学び、どんなものでも公式化できるわけではないということを学ぶ。

このような数学的背景に触れた後ならば、『その導出方法はよく分からないけれど、実はこんな道具(公式)もあるんだ、』というような公式の学び方は、完全に間違いだとは言えないと思います。

論理よりも実践、机上の計算よりも現場という世界

受験算数的教育スタンスとしては
・原理まできちんと理解してほしい
けれど
・実践的に使い分けていこう
こんな感じです。
実践的、がキーワードです。 
※原理まで教えるかどうかは、学習者の学力にも多分に依存します。

そしてこのスタンスは、おそらく受験算数に特有のものではないと思います。

なんでもかんでも証明できなくとも、ただしく運用できればよい、という思想は、工学の世界、つまり論理よりも実践、机上の計算よりも現場という世界では極めて大事な思想といえます。
原理原則まですべて知っていることでないと使ってはいけない、というストイックすぎる教育は、子どもを縛り付ける恐れがあります。
例えばプログラミング言語を学ぶことなどできなくなってしまうでしょう・・・

公式の成り立ち、原理まできちんと理解しよう!という教育はとても大事なことですが、程度問題であると言えます。
学びうる人は学ぶ。
そうでない大多数の人は、もう少し世俗的な教育でよい。
これが算数(数学)教育としてまったく間違っていないと思います。

※麻布で2015年に断頭三角柱の体積が出題されています。麻布といえば、「算数的出題」に最もこだわっている学校といえますが、出題しています。
開成は、2015年には、ななめの柱体の体積は・・・という出題もありました。これも、公式をその場で与えている問題です。公式の原理は知らなくてもよいという出題です。

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